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教員推薦図書

法学部では、学生の皆さんへ各教員からお勧めの一冊を紹介していきたいと思います。

パスカル『パンセ』

高校時代のアイドルはいまだに忘れられないものだが、私にとってのアイドルの一人はパスカルであり、今でも時々手に取ることがある。 集中力がないせいか、高校時代から断章ものが好きだ。モンテーニュ、ニーチェ、そして現在ではウィトゲンシュタインとか。適当なところを開いて、数ページ読んでおしまい。その時の気分に合わなければ、また明日。こんな読み方をしているものだから、いまだに著者の全体的な主張はよくわからない。しかし、そんなことはお構いなしで、適当なページを開くと、刺激的な言葉にエネルギーをもらい、自分の頭が動き出すのが分かる。自分が考えるために本を読んでいるのだから、これでいいと思っている。一番印象に残っている箇所を一つ。パスカルは神の存在証明を断念しつつも、神が存在している可能性に賭けるように我々に薦める。この議論の転換には心底びっくりした。敬虔なキリスト教徒であるパスカルが神を賭けの対象としているのだから。私にはむしろ、神の不在に賭ける方が合理的だと思われたが、そうこう考えるうちに、この賭け自体が私にはどうでもよいものとなった。賭けの賞金がよく分からないからである。このように本書は、パスカルの意図とは異なり、神に対する私の無関心を決定づけた書である。
(紹介文:若松 良樹)

横田洋三訳・編『国際社会における法の支配と市民生活ーヒギンズ国際司法裁判所所長の講演とパネルデスカッションー』国際書院、2008年

 第一部で、ロザリン・ヒギンズ国際司法裁判所所長(2007年当時)の講演「国際司法裁判所(ICJ)と法の支配」が掲載されています。本来国内法の考えである「法の支配」が国際社会ではどのような状況にあるのかを考えさせてくれます。国連を中心として国際社会における法の支配はまだ検討途上にありますが、国家間紛争に関し裁判を行なう、ICJについては、国際法を一貫性をもって、公平に適用してきたこと自体が法の支配を体現しており、かつ、その尊重と促進に関わる最良の方法である、と力強く肯定します。また法の支配に関わるICJと国連安全保障理事会の関係、「人権」及び「民主主義」をめぐる国内的法の支配と国際的法の支配の関係、法の支配に関わりうるICJ判決の実効性等々、さまざまな興味ある論点が提示あるいは示唆されています。第二部(パネル・ディスカッション:国際社会における法の支配と市民生活)をあわせてよむことにより、さらに本講演の深い意味あいを味わうことができると思います。
(紹介文:佐藤 文夫)

Dreams from My Father: A Story of Race and Inheritance by Barack Obama

 ご存じアメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏による自伝です。この本が1995年に出版されるきっかけとなったのは、オバマ氏がハーバード大学のロー・スクールに在学中、学生による学術誌Harvard Law Reviewの編集長に選ばれたことです。この大変栄誉ある編集長にアフリカ系アメリカ人が選出されたのは初めてであり、アメリカで大きなニュースになりました。この自伝の出版後、オバマ氏は一躍政治家としての頭角を現し、2008年には初のアフリカ系アメリカ人大統領に選ばれて世界を驚かせました。
 しかし、後に大統領になる人物によって書かれたことを抜きにしても、この自伝はアメリカ社会が抱える「人種」という深い問題について示唆を与えてくれます。ケニア人留学生を父に、カンザス州出身のアメリカ白人を母に持つmixed raceの著者はアメリカ国内外の様々な経験の中で人種問題に直面し、苦悩します。生まれ育ったハワイの多文化社会から、幼少期の数年間を過ごしたインドネシア、西海岸ロサンゼルスの大学、東海岸のコロンビア大学。後にシカゴの貧しいアフリカ系コミュニティで活動した著者は父親の足跡をたどってケニアを訪ね、自分のルーツに出会います。この自伝は、人種の境界で揺れ動きながら自己のアイデンティティを探し求めた著者の壮大な旅の物語でもあるのです。
 何ヶ国語にも翻訳されていて日本語訳もありますが、オリジナルの英語で読むことをお勧めします。それほど難しい英語でもなく各章が短いのでさくさく読めます。大学時代に一度は洋書を一冊cover to coverで読んでみましょう。
(紹介文:佃 陽子)

『100年の難問はなぜ解けたのか』(春日真人・NHK出版)

 宇宙の形の解明につながる数学上の難問「ポアンカレ予想」。100年にも及ぶ時を経てついに解決されるに至ったが、そこには数多くの天才数学者達の栄光と挫折の歴史があった。実用的ですぐに役立つものほど価値は低いとされ、普遍的な美しさをひたすら追い求める数学は、まさに学問の中の学問。基本概念を理解し、それを用いてすばやく問題を解くことを求められる学校数学とは異質の世界である。本書によって、長らく数学に接することなく解法の技術をすっかり忘れてしまった者でも、しばし真の数学とはどういうものであったかをさりげなく実感することができる。
 他方、ポアンカレ予想を解いたのは、安定した生活を捨てすべてを数学に捧げたロシア人数学者グレゴリ・ペレリマン。彼は、数学界のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞を初めて拒否した人物であるが、それは自分で決めた行動原理に極めて忠実に従った結果であった。その崇高で気高き精神は、効率性と物質的欲望を追求して止まない現代社会を生きる者に、一抹の清涼感を与えてくれるであろう。
(紹介文:鋤本 豊博)

『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』 スラヴォイ・ジジェク著
(青土社、1995年)

  「私」とは何だろうか??、そんな疑問を抱いたことのある人が、皆さんの中にも、もしかしたら、いるかもしれません。いったいぜんたい「私」って誰のことなんだろう、なんで私は「私」なのか??。私が学生の頃、講義の中で「私とは、私が考えるところの私ではなく、私とは、私があなたが考えるであろうと考えるところの私である」 という趣旨の文章に出っくわしました。これが誰の言葉だったかは、いまでは覚えていませんが、ラカンという人の考えかたにとても近いということを、先輩に教えてもらいました。興味を持って、ラカンなる人の書物に挑んでみたのですが、さっぱりわかりません(今でも分からないと思います)。ご紹介する『斜めから見る』は、そんなラカン理論に、映画という大衆文化から接近している本です。これを読んでラカンが分かったとは、やっぱり到底いえないのですが、ヒッチコックやスティーブン・キングをラカン理論で切ってみせる本書は、妙に面白かった記憶の強い本なので、お薦めしたいと思います。
(紹介文:青井 未帆)

『無限論の教室』野矢 茂樹 著講談社(講談社現代新書)

  大学とは、答えが用意されていない問いに取り組む場である??少なくとも私は、大学生の頃、そのように感じた。受験勉強では正解があらかじめ準備された問いに解答すればよかったが、大学の学問ではそうはいかない。答えが幾通りもありうることも、決定的な答えが見つからないことも ある。さらには問い自体を自分で見つけ出すことまで要求される。そして今は、「考える」とはそういうことであり、それこそが学問の醍醐味なのではないかと思っている。
 この本の舞台は、先生と男子学生(主人公)と女子学生の3人で行われる哲学講義である。ありそうなシチュエーションと主人公の戸惑いに共感しつつ読み進むと、気がつけば自分も同じ教室にいるかのような気分になり、一緒に腕組みして考え始めることになる。もちろん、「無限論」の内容自体は決して簡単ではないので、はじめからすべてを理解しようと意気込みすぎない方がいいかもしれない。これまで常識と思っていたことが揺るがされる感覚を味わい、難解な問いに向かっていく楽しさを感じることができたならば、「学問」への一歩を踏み出したといえるだろう。
(紹介文:足立 友子)

『危機の二十年』E.H.カー著(井上茂訳)岩波書店(岩波文庫)1996年

 著者のE.H.カーは、イギリスの外交官として活躍した後に、1936年、ウェールズ大学のアバリストゥイス校で国際関係を講じるようになった人物です。外交官時代にロシアの思想家などについてのすぐれた本(『浪漫的亡命者』や『ミハイル・バクーニン』など)を書き、さらに研究者に転身してからも健筆をふるいました。その彼が、1939年、再び戦争開始の可能性が強まるという危機的状況の中で執筆、刊行した本が、この『危機の二十年』です。ここでいう20年とは、第一次世界大戦が終わってからの20年間で、カーは、先の大戦後に再び戦争を起こさないという意図のもとで広まった国際関係についての姿勢(国家間の利益調和という考えに基づいたユートピアニズム)が、結局は失敗したと見て、パワーを重視するリアリズムの意味を説きました。そのため、カーはリアリズムの理論家としてみなされがちですが、この本をよく読めば、カーが単純なリアリズムを唱導しているのではなく、道義と権力の整合、それに対応するユートピアニズムとリアリズムの「らせん的発展」の必要性を論じたものであることが分ります。現実と理論の間の緊張感をにじませた本書は、国際関係論に関心をもつ人間にとって、必読の古典であるといえるでしょう。
(紹介文:木畑 洋一)

『だから、あなたも生きぬいて』 大平光代 著(講談社)

 中学2年の時にいじめを苦にして自殺未遂。その後非行に走り、16歳の時には「極道の妻」となって背中に刺青を入れる。しかしその後、養父となる人と出会って心を入れ替え、中卒であったにもかかわらず、宅建、司法書士等の難関資格試験に合格し、29歳で司法試験にも合格。現在では子どもや家族の法律問題を中心に弁護士として活躍している。最近では大阪府の助役を一時期務め、市政の建て直しにも尽力した。そんな著者の自伝です。
 残念ながら、現在では太平さんのように中卒から直接司法試験に合格する道はほぼなくなり、大学そして法科大学院の卒業が司法試験受験に必要となっています。しかし現在でも、人生のやり直しを懸けて、様々な経歴を持った人たちが困難を跳ね除けて法科大学院に進学し、弁護士その他法曹の道を目指しています。本書は、新入生の皆さんが将来の進路を考えるとき、必ずや勇気を与えてくれる一冊です。
(紹介文:大津 浩)

『基礎から学ぶ刑事法』 井田良 著(有斐閣)

 著者が大学1年のときに味わった刑法学に対する苦い思い出から、そのときに出会いたかった本を書こうという意欲に満ちた書籍であり、これから刑事法を学ぼうとする人に、何をどう学べばよいのかを示している。その取り扱う領域は、刑事法全般に及び、易しい文章でありながら、そのレベルは高く、刑事法を相当程度学んでいる者をもうならせる内容である。もしこの本をキチンと読んでも理解できなければ、転部をお勧めしたいと思う。
(紹介文:鋤本 豊博)

『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー 著

 この小説は周知の通り、文学史上最高傑作の一つと評されており、人間である以上、一度は読んでおくべきものと思われる。饒舌で偏屈な登場人物が織り成す数々の人間模様を倦むことなく読み進めるなかで、自由、良心、信仰、罪とは何か、等々現代に通じる根本問題に自然と誘われる。「大審問官」の箇所が有名であるが、個人的には「ガリラヤのカナ」に感銘を受けた。
(紹介文:西土 彰一郎)

Misterioso by Theronious Monk

 世界の中心に自分がいて、愛を叫べる人たちとは異なり、私は一貫して「この星のこの僻地で」(byキリンジ「エイリアンズ」)という感覚に囚われている。そんな私が高校生の時代から大事にしてきたものは「場末」感であった。そして場末のピアニストの代表がモンクである。
モンクと言えば、あざやかにもつれる指、渾身のミスタッチ、絶妙な間の悪さなど場末好きには堪らない特徴を兼ね備えているが、本作はライブ盤ということもあって、場末感はさらに増幅されている。場末好きの私にとって、本作の魅力は演奏そのものもさることながら、本作のミキシングにある。例えば、テナーサックスのソロの際には増幅されていないライブハウスの雑音(話し声やコップの音)が、リーダーであるはずのモンクのソロの際には増幅されており、なお一層の場末感、さらには中心のないメビウスの輪のような感覚がトリップを誘う。
場末大学教師がモンクの域にまで達した授業ができているかどうかはかなり疑問だし、そのような授業が世界の中心にいてポップな学生に理解されるとも思えないが、「心がポップではない」(by中村肇)私にとっては、本作は辿り着くべく境地と辿り着いた後の虚無感を示してくれている名盤である。
(紹介文:若松 良樹)

『必読書150』 柄谷行人ほか 著(太田出版、2002年)

 「先生が勧める本など読んでたまるか」というのが、大学生としては当然の心構えであるはずです。この当然の前提を確認したうえで、しかし、どうしても勧めてほしいというあなたのために、三段階に分けて推薦書を記しておきます。
 初級編 : 柄谷行人ほか著『必読書150』(太田出版)。タイトルが示すとおり、サル扱いされないための最低限の必読書のリスト。ここにリストアップされた本を、全部読む。そう、『オデュッセイア』も『ユリシーズ』も『哲学探究』も『アンチ・オイディプス』も、全部。余裕があれば『フィネガンズ・ウェイク』(河出文庫)や『ピサ詩篇』(みすず書房)や『千のプラトー』(河出書房新社)に手を伸ばしてみるのもおつなもの。何にせよ、読むとまではいかなくとも「見る」「触る」だけで御利益がありそうな本ばかり。

 以上をマスターした人への中級編としては、雑誌『ユリイカ』(青土社)の特集「文化系女子カタログ」(2005年11月号)を。暗黙に男子のものとしてジェンダー化された「教養」の外縁で、たくましくあるいは密やかに自生する「女子文化」の一大饗宴。院生女子や文学少女から女子オタに腐女子、そしてジャニオタさらにはメガネ男子萌えに至るまでをみっちり詰め込んだこの特集号は、モテ/非モテといった区分すら脅かす破壊力を秘めている。筆者自身はやや批判的なコメントを寄せはしたものの、たとえば堀北真希に「文化系女子」を演じさせた『ダヴィンチ』誌の同様の特集に手を出すくらいなら、こちらの特集の起爆力に賭けるべきと思わせる濃密さ。必読。

 上級編 : 初級・中級をマスターしきったあなたには、もう教えることは何もない。示唆的なキャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』(毎日新聞社)と、呆気にとられるほど面白いばるぼら『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』(翔泳社)を両手にウェブをさまようもよし、すが秀美・花咲政之輔編『ネオリベ化する公共圏』(明石書店)を片手に大学の現状に思いを馳せるもよし、森見登美彦『四畳半神話大系』(太田出版)を片手に「薔薇色のキャンパスライフ」(カギカッコ付き)を夢見るもよし、西尾維新『新本格魔法少女りすか』(講談社)と松田洋子『まほおつかいミミッチ』(小学館)における魔女表象をジェンダー視点で比較分析するもよし……。
(紹介文:太田 晋)

君たちはどう生きるか 吉野源三郎 著 (岩波文庫[青158-1]、1982年)

本書は、昭和12年に『日本小国民文庫』の一冊として新潮社から出され、現在もなお読み継がれている古典的名著の復刻版(岩波文庫版)である。中学校2年生の主人公コペル君が「おじさん」によって人間と社会への眼を開かれていくその精神的成長を追体験しながら、「社会科学的認識」の基礎を学ぶことができる。新入生の諸君には、自分の殻に閉じこもることなく、コペル君とともに、人間や社会に強い関心をもっていただきたい。そう願って本書を推薦することにした。また、人間や社会への関心は、とりもなおさず法律学の学習の第一歩でもあるのだから。
(紹介文:亀岡 倫史)

読書の現在 読書アンケート1980-1986「みすず編集部 編」
(みすず書房刊、現在絶版)

みすず書房から、月刊のPR誌「みすず」が刊行されています。毎年1月号(最近は1月=2月合併号)には「読書アンケート」の特集があり、様々な分野の人の読書アンケートの結果が掲載されています。私は、高校3年のときから、それを読んでいて、若いときは、これを読書の指針としていました。『読書の現在 読書アンケート1980?1986』は、その特集記事を纏めて1冊の本にしたものです。読書案内であるだけでなく、それ自体として興味深い読み物と言えます。遺憾なのは絶版だということですが、成城大学の図書館には間違いなく1冊入っています(019/D83)。
(紹介文:成田 博)

翻訳語成立事情 柳父章 著 (岩波文庫[黄189]、1982年)

この本を読むと、私たちが普段使っている「社会」、「個人」、「近代」、「恋愛」などという単語は幕末から明治にかけて、翻訳のために作られたものだということが分かります。単語がなかったということは、それまで日本には「社会」や「個人」というものの概念がなかったことを意味します。明治の翻訳者たちが苦労して単語を作りだしてくれたおかげで、「社会」などの概念が日本に現れたのです。しかし、そこには単語だけが一人歩きして、中身が伴わないという問題もあったことを著者は指摘しています。この問題は今もまだ残っているでしょう。言葉の役割について考えさせてくれる良書です。
(紹介文:永井 典克)